トリルとイブと"ましん"の歌
おまえの足は柔らかすぎて、岩場を走れば血が出る始末。
おまえの毛皮は薄すぎてフォルテの腹にもぐってなけりゃ、冬は眠れもできやしない。
おまえの爪はもろすぎて、水蜜茨も引き裂けない。
おまえの喉は細すぎて、月夜の歌すら響かない。
いいかいよくおきき、象牙のイブ。
おまえはかわいいあたしの娘、森の女王のトリルの娘。
けれどおまえはオオカミではないんだよ。
この森はオオカミが統べるもの。
オオカミでなく、ニンゲンのおまえには、オオカミの森を守らせるわけにはいかないの。
大人のオオカミになるかわりに、おまえはニンゲンにならなくちゃ。
やさしく静かにけれどとっても悲しいことを大好きなトリルから聞かされて、イブは涙を浮かべます。
トリルの毛皮は金色の月に照らされて、きらきら銀色に光っていました。
どうしてあたしは、あの銀色の毛皮をまとっていないのかしら。
トリルの牙は雪のように真っ白です。
どうしてあたしは、あの白い牙を持っていないのかしら。
いつかきっと、トリルのように銀の毛皮と白い牙を持った美しいオオカミになるんだとひそかに夢見ていたイブは、ばら色の頬に涙の粒を走らせながらきっとトリルを見上げて言いました。
ニンゲンなんてどこにもいない。
あたしはニンゲンなんて知らないのに、どうしたらニンゲンになどなれるというの。
拗ねたように泣くイブの、ころころ流れる涙の粒をトリルはぺろりと舐めてやり、ふさふさの尾を大きく一振りして岩場から立ち上がりました。
そうね、イブ。ニンゲンなんてどこにもいない。
だからニンゲンの歌を聞きに行きましょう。
トリルは大事な秘密を打ち明けるように、優しくうなって小さなイブを立ち上がらせました。
歌?ニンゲンも歌を歌うの?
そうよ、ニンゲンも歌を歌ったの。
岩場の歌を?月夜の歌を?
ニンゲンはオオカミの歌は歌わない。さっき教えてあげたでしょう?ニンゲンの喉は細すぎて、オオカミの歌は歌えない。
岩場の歌や月夜の歌でない歌なんて。
だからそれを聞きに行きましょう。ニンゲンの森、あの死んだ森、あの森のそのうんとうんと奥のほうに――
トリルがそのつややかな濡れた鼻をついと風に向かって指し示したので、イブもそちらを眺めました。
風の吹いてくるその方角には、つめたく、くらい、四角い岩がにょきにょきと立った「ニンゲンの森」がある方角です。
ニンゲンではないけれど、ニンゲンの歌を歌う"ましん"がいるの。"ましん"の歌を聞きに行きましょう、イブ?
トリルは前足をかがめて、イブにその背にのるよううながしました。
東の岩場に哀れなカモシカを狩に行くときや、北の洞窟の冷たい沢に水を飲みにいくときのように、長い距離をはしるとき、トリルの背に乗せてもらえるのは、群れでもイブだけだったのです。
イブはその特権を以前はとても誇らしく思っていたのですが、それは自分の足が弱すぎるからだということに気づいてからは素直に喜べなくなっていました。
このときもイブは唇を噛んでためらいましたが、久しぶりにトリルと走る喜びには勝てません。
トリルの銀色に輝くかたい外毛の下はふわふわであたたかく、イブはしっかりとその強い背中にまたがり、たてがみを握り締めました。
ニンゲンの森にひたひたとイブのつめたい足音がしています。
トリルの爪はかちゃかちゃと耳障りな音を立て、イブは足を踏み入れたばかりのニンゲンの森からもう帰りたくて仕方ありません。
この奥にニンゲンの歌を歌う"ましん"がいると聞かされても、イブは"ましん"など見たこともありません。
退屈と気後れと、かすかな恐怖を紛らわそうとイブはトリルに聞いてみました。
ねえトリル、"ましん"は何を食べるの?何もお土産を持ってこなくて良かったのかしら。こんな冷たい森の中で"ましん"はお腹をすかせているかもしれないわ。
"ましん"は何も食べないのよ、イブ。
退屈しのぎに何気なく聞いたことに、意外な答えを返されてイブの目が大きく見開かれます。
どうして?"ましん"は歌を歌うんでしょう?なのに何にも食べないなんて!
理由は私も知らない。でも"ましん"が餌を食べるところは見たことがない。
トリルに知らないことがあるなんてと、イブはまた驚きました。
お腹もすかない、なら狩りの必要もないじゃない。"ましん"は狩りの歌を歌えないわ。
オオカミたちの歌は、全てが食べるための、生きるための歌なのです。
食べる必要がないのなら、歌を歌う必要もないのです。
イブにはわかりきったことでした。
違うのよ、イブ。"ましん"の、ニンゲンの歌は、オオカミの歌とは違うの。
だからね、イブ。
お前はニンゲンになるために、ニンゲンの歌を歌いなさい。きっと"ましん"が教えてくれるから。
トリルはまた、ふさふさの尻尾を大きく振ってイブを勇気付け、さらに森の奥へ進んでゆくのでした。
ニンゲンの森はあちこち崩れ、痛ましい姿をしていました。
オオカミの森に溢れている、鳥の声や獣のうなりや虫の声などなにひとつ聞こえません。
その森の奥にはキラキラ光る氷のようなものに覆われた、大きな箱がありました。
それがガラスと呼ばれていたことなど、もちろんイブは知りません。
かすかな月明かりだけをたよりにここまで進んできたのに、どういうわけか、その箱だけはほのかな緑の光にぼんやりと浮かび上がっています。
ここまで細心の注意を払って、瓦礫や石を避けて歩いてきたのに、どういうわけかその箱だけはどこにも穴がありません。
イブとトリルは箱の前で立ち止まりました。
あれが、"ましん"?
あの中に、いるのよ。
トリルは短く答えて先にたって歩き出しました。
"ましん"のいる、箱の中へ。
すると氷の箱は音もなく口を開けたのです。イブは心底驚いて、慌ててトリルの尻尾をつかんで引き止めました。
トリルが尻尾をつかまれるのを好まないことを、イブは知っていましたが、氷の箱にトリルがのまれてしまうようでそうせずにはいられなかったのです。
だめ、だめ、トリル、いったらだめよ
本当はイブは怖かったのです。トリルを心配するふりをして、いったらだめよと言って欲しいのはイブのほうでした。
トリルは無言でイブの手から尻尾を振り払うと、箱の中に足を踏み入れ、ふりかえってイブを見ました。
さあ、おいで。言ったでしょう、マシンは何も食べないの。怖いことは何もない。
イブは恐る恐る足を踏み入れます。
一歩、二歩。
氷の箱の中の"ましん"は、イブと同じ姿をしていました。
緑の髪、細い手足、小さな唇、華奢な喉。
髪と同じ色の瞳を大きく見開いて、"ましん"は箱の奥に座っていました。
髪の色や目の色が違うけれど、それは確かに時折湖のおもてにうつしてみる、イブの姿と同じでした。
イブは自分と同じ姿をしたものを見るのは初めてでした。
さらに歩みを進めてイブが"ましん"に近づいても、その瞳はまっすぐ大きく見開かれたままです。
よく見ると"ましん"が座っているものからは、何本もの細い蔓が出ていて、"ましん"の手足を繋ぎとめているようです。
イブは急に、自分と同じ姿をした、蔓にからめとられた"ましん"が哀れになり、駆け寄って蔓を引きちぎってやろうとしました。
その瞬間、"ましん"は歌い始めたのです。
可憐な、細く高く澄んだ声で、勿論イブの知らない、美しい歌を。
緑の瞳を、見開いたままで。
"ましん"は歌い続けました。
何度も、何曲も。
同じ歌を繰り返し歌うこともありましたが、ほとんどはイブがはじめて聴く歌ばかりでした。
"ましん"は座ったまま、目を見開き、まっすぐに前を見つめて歌い続けました。
イブはいつの間にか、ぺたりと座り込み、歌い続ける"ましん"を見上げました。
これが、ニンゲンの歌。
トリルは座り込んだイブの隣で、くつろいだように寝そべって"ましん"の歌に耳を傾けていました。
尻尾がふさふさと揺れ、かたちの良い耳がぴこぴこと揺れているところを見ると、トリルは"ましん"の歌を楽しんでいるようです。
岩場の歌や狩りの歌を聴いているときのトリルとは明らかに様子が違います。
イブはあまりの驚きに、からからに渇いた喉をどうにか湿しながらトリルに聞いてみることにしました。
これが、ニンゲンの歌なの?
そうよ、これがニンゲンの歌。あなたの歌。
これが、あたしの歌。
"ましん"は歌い続けています。
あたしもこれを、歌えるのかしら。
もうどれくらい、"ましん"の歌を聴いているでしょう。
少し寒くなってきたイブは、トリルの毛皮に埋もれるようにして丸くなり、それでもまだ"ましん"の歌を聴いていました。
様々な歌がありました。悲しんでいるように聞こえるもの、嬉しくて仕方ないようなもの、不思議な夢のようにふわふわしたもの。
まるでオオカミの戦いの歌のように勇ましく聞こえるものすらありました。
トリルは少し眠くなってきたようです。目を閉じてひそやかにうなるようにイブの問いに答えます。
ニンゲンの喉は、オオカミの歌は歌えない。
オオカミの喉は、ニンゲンの歌を歌えない。
イブ、お前はニンゲンよ。ニンゲンの歌が歌えるのは当たり前だわ。
オオカミが、オオカミの歌を歌えるのと同じようにね。
その言葉を最後に、トリルは眠ってしまったようです。
ここまで長い距離を歩いてきたイブも眠くなってもおかしくありません。
けれどなんとなく、まだ眠る気にはなれなくて、イブは歌い続ける"ましん"をまた見上げました。
ねえ、"ましん"
あなたはどうして歌うの。
いつからニンゲンの歌を歌っているの。
何のために、誰のために?
お腹もすかない、蔓にしばられて歩けない"ましん"
もしかしてあなたは、あたしのために、ニンゲンのために、ここで歌っているのかしら――
銀色の毛皮の大きな美しいメスのオオカミが眠っています。
その体にくるまって、小さなニンゲンの少女が眠っています。
淡い緑の光をまとって、眠る二人に"ましん"は歌い続けているのでした。
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