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「あの旗本様。」
振り返って問いかけた遊女の言葉に少女は予期していたように肩をすくめた。
「おまえに縁あるお方じゃないのかえ?」
「そうかもしれんと思っても、はて、りんには見当もつきんせん。」
「はっは、そりゃあ神威様もおかわいそうなことじゃ。」
遊女は細い喉をのけぞらせておかしそうに笑い、贅を尽くした黒檀の見事な鏡台に視線を戻した。
「珍しく見目の良いのがと思ったら、お目当てはお前とはねえ、まったくこの紅雲も色があせたってことかいなぁ。」
「そんなわけありんせん、紅雲姐さんはいつだっていっちおきれい、お武家様にゃあ野暮が多い、野暮なお客を相手にしちゃあ姐さんのお格がさがりんす。」
少女の様子は誉める慰めるというよりも、自分を育てた遊女がたとえ士分と言えどたかが初会の、新参の客に軽んじられたことを憤るふうだった。
「まあ、ナカの遊びにはまったく不慣れでおいでなんは確か、それでもあの役者みたいなご面相にうぶなご様子、あれじゃぁ間夫にくわえこみたい年増がどっさりサ。お前、どっかの座敷持ちなんかにかっさらわれるんじゃあないよ。」
「りんはあんな、ご面相しかとりえのねえよな貧乏侍は好きやせん。」
勢いに任せてつんと横を向く少女に、遊女はこん、と紅筆を投げた。
「まったく、ぬしゃぁ根性がいいやらわるいやら。いつまでもわっちのうしろに隠れてなま言ってられやぁしないんだよ。」
少女は紅筆の当たったこめかみを、大げさに抑えて唇を噛む。
「そろそろそのおっきなてめェの眼でこの吉原を見たらどうじゃ。わっちだってお前はかわいいかわいい妹分サ。おまえが言うなら水揚げのかかりなんか、わっちがかぶってやったっていい。」
少女はぶんぶんと首を振った。
自分の水揚げ、すなわち遊女としてのお披露目の儀式にはうしろだてである太夫の面子も格もかかっているのだ。
それを潰さぬよう、また先々の自分の格を支えるよう、見事に支度を整えるには途方もない金がかかる。
この遊郭でお職をはるこの紅雲太夫なら不可能ではないだろうが、それはその肩に確実に重く借金がのしかかっていくことを意味する。
名代で顔を売れる今のうちに、自分の水揚げに大枚をはたいてくれる羽振りのいいお客を見つけなければいけない。
少女なりに、必死だった。
「いつまでもわっちの部屋付きでいられるわけじゃぁない、ここは所詮地獄サ、地獄の鬼にここを食い荒らされねェうちに。」
遊女は煙管で少女の左胸を指し示し、伝法に片方膝を立ててぷかりと煙を吐いた。
「お前の真心を守ってくれるお人を見つけなきゃ。」
妖艶でありながらどこか儚げなその微笑は同性であり長年裏を見てきた少女でさえも、うっとりと見惚れるほどだった。
いつか自分もこんなふうになれるのだろうか。
遊女はここは地獄と言うけれど、三浦屋一の太夫にかわいがられ、芸も衣も何不自由なく与えられて新造にあがった少女には実感がなかった。
こんなに美しい人が暮らすこの街が、地獄でなどあるものか。
「姐さんは、神威様がそうだってお見立てでありんすか。」
遊女はそらとぼけた様子でそっぽを向いた。
「…まあ、あんまり羽振りはよかなさそうだけど。」
二人は顔を見合わせ、おどけた様子で声を合わせてきゃっきゃと笑う。
「次に神威様がいらしたらわっちは出ないよ、りん、しっかりおつとめなんし。もしかしたら水揚げに名乗りをあげてくださるかもしれない。」
「まさか、そんな。」
「お前は心当たりがないというし、神威様は一生懸命取り繕っておいでだったけど。あんな必死な目をして。わっちの脅しにもしっかりこらえておいでだったよ。」
「脅し?」
少女の問いに答えず、遊女はどこか懐かしむような顔をする。
「あんなふうに踏ん張って。あんな目をして。わっちだってそんな男は、一人しか知らない。」
きっとその男に街の鬼から守られているから、この人はいつまでもこんなに美しいままなのだ、と少女は思った。
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