「海斗、頼みがある。」
他の客がいなくなり、青年は静かに切り出す。
今日はいらないと酒を断った青年に、それならこんなのはと主が出したのは、ねっとりと蜜のしみた栗の渋皮煮と熱いほうじ茶だった。
菓子のたぐいまで用意があるとはなと驚く青年に主は照れて、実は俺が甘いものが好きなんでと答えた。

「あんまりきかねえ方がいい話じゃねえでしょうね。」
「さあ、いや、まあそうだろうな。そうかもしれん。」
「勘弁してくださいよ旦那、俺だってせっかくのご贔屓を失くしたかねえですよ。」
もう虫の声も薄くなる晩秋だった。

「人斬りが入用なところに当てはないか。」
その声に少しも特別なものをのせずに言い放った青年に、主は両手を調理台にかけてしゃがみこんでしまった。
「ここらで屋台をひいてれば地廻りやくざどもの顔くらいは嫌でも知っておるだろう。渡りをつけてくれればそれでいい。」
しゃがみこんだままの、くぐもった言葉にならない主の自責の声を無視して淡々と青年は続け、音を立てずに薄い唇で茶をすすった。

「ああ、もう…最初っからやべえ気はしてましたが、まさかそんな物騒な。」
「ふん、私の取り柄なぞ剣くらいしかないわ。」

ああ知らねえふりをしとくんだったと呟きながら後悔に顔を歪めて立ち上がった主は、その人の良さそうな目元にせめてもの非難を浮かべて青年をにらんだ。
青年は気にも留めず、目をふせて唇によせたままの湯呑みのふちを見るでもなく見ながら続ける。
「旗本株の買い手は、まあ私にも段取りはつけられる。屋敷と刀もな。それでも先の太夫という格には足りんのだ。」
「仮にもお武家様ともあろうお方が、そんなあけすけに銭金の話なんか、」
「知ったことか。」
湯呑みを置いて青年は主の視線に真っ向からこたえた。
その、音を立てそうなほど怜悧な冷めた目つきに主は気圧されて目をそらせたが、非難の色は消えなかった。

「きけませんよ、そんなのは。」
「そうか。」
「冗談じゃねえや、俺にがけっぷちにいる旦那の背中つっとばせってんですかい。」
「仕事をしてる間は私は士分だ。お前につっとばされても崖には落ちん。まあ、ばれてもお咎めなしとはいかんだろうが、必要な金子を集める間くらいはもつだろう。無論、お前に累が及ばぬことも請け合ってやる。」
青年の言葉は、この時代の武士の、ほころびかけてはいるもののそれでも強固な身分をさしていた。
裏社会に生きるごろつきどもの争いに特権階級である士分のまま手を貸し、その報酬を少女の水揚げの前に身請けする金にあてようというのだ。
役職もそのあてもない下級武士が、新造とは言え太夫見習いを請け出そうとするなら、その手段がまっとうなものであるはずもなかった。

「そんな話じゃねえってのに、ああもう旦那はそんな真似のために剣を振るってたわけじゃねえでしょう。」
「何のためでもなかったのがそもそも間違いだったのだ。まあいい、お前に頼めんならそこらの同心にでも聞いてみるつもりだ。」
「な、そんな、駄目だそんなことしたらいざコトがあったとき真っ先に旦那にお縄がいっちまう。ただでさえあぶねえ橋なのに。」
「だからお前に頼んでいる。仕方あるまい、私に他に伝手などあると思うか。」

主は再び調理台に手をつき、ごちんと音を立てて額を調理台にうちつけた。
「ひっでえなぁ…」
呟き、最早うらめしいと言えるような目つきで顔を上げる。
「俺に、旦那をひとごろしにする片棒をかつげってんですかい…」
「…すまんな。」
「他にやりようは、ねえんですか。大体、そんなんじゃ万事うまくいっても、その後は。」
どうにか思いとどまらせようとする主の問いに、青年はあらかじめ用意していたかのような口ぶりで答えた。
「りんの父と付き合いのあった博多の商人に話をしてある。贅沢な暮らしはさせてやれぬだろうが、娘分として女一人くらいならという返事をもらっている。」
「女一人、って。じゃあ旦那は。」
「さあな。私といてりんにまで累が及んでは甲斐もない。刀もなし、屋敷もなしの素ッ町人が一匹、それで済めば幸いだな。」
「俺にゃあ、幸いどころかそれすら夢物語にしか聞こえねえ。どんだけ分のわりい賭けをやろうってんですか。」

うなだれて主は言葉を探しているようだった。
「その、りん、って子は。」
「自分のためにそこまでする旦那をほったらかして、博多でたのしく遊び暮らせるような子ですかい。」
「…知らなければ、済む。」
主は両手に力をこめて、ぐっと屋台越しに身を乗り出した。
「旦那に紅雲の名前を教えたのは俺だってえのをお忘れじゃねえですか。俺は知らせることができるんですぜ。」

じゃり、と苛立った音が青年の足もとから響く。
「いい加減にしろ。お前に紅雲殿をわずらわせることなどできまい。事情は知らんが浅からぬ縁があることくらい察しはつく。」
主は引く気はないようだったが、ここで自分が引いたらと焦る気持ちが顔に出て唇を噛んだ。

「そもそも知らせてどうする。私を番所にでも突き出すか。あの娘は、りんはあのままあそこで、死ぬまで、」
それまであらかじめ用意してきたかのように青年はよどみなく話し続けていたが、その先は言えずにいる。
口にするのもおぞましいと無意識にその言葉を切ったことが、何よりも青年の真意をあらわしていた。

「…それで、若様は。」

「その、娘を売ったひとでなしのお師匠様の無念の為に、わっちを探していたとおっしゃりんすか。」

父が死んだと告げられ、長い長い沈黙の後、斬りつけるようにつよい目をして自分を見上げた少女を思い浮かべながら、青年は川縁で約束の時刻を待っていた。
そうだとも違うとも答えられず、また来るとだけ告げて別れた。
秋が終わろうとする夜の川のほとりは暗く陰気で、水面を通ってきた風は冬のさなかのように冷たかった。

見つけてしまったからにはもう後戻りはできない。
届かぬものと半ばあきらめながらも手探りに伸ばした手が届いてしまったのだ。
探してどうするとも考えていなかったが、ここであの少女との糸を断ってしまったら、自分は父とも仰ぐ師の無念を晴らすこともできないばかりか、あの少女を苦界に置き去りにすることになる。
せめてもの救いは最早天涯孤独のような自分の身の上と、まだあの少女が遊女になりきっていないことだ。
水揚げが済んでしまえば遊郭から少女を買い戻す金はさらに跳ね上がる。

父も母も師もいない。
残さなければいけない家でも最早ない。
この太平の世に果たすべき使命もない。

急がなければならない。
ためらう暇も理由もない。
自分には剣の腕だけがある。

青年は、無為な自分を呪っていた。
7年前、充分に介入出来るはずだった自分が何も行動を起こさず、少女を売った金で続けられた道場で呑気に剣を振るっていたことが言いようの無い罪悪感として、青年のうちにとぐろを巻いていた。
だがあの日、泣かずに、しかし笑わずに自分を見送った少女に、どうか笑ってほしいとひそかに願った自分も、青年は忘れていなかった。
次に会うときは、何か少女が喜ぶものを持っていこうかと思いついた青年は、その場違いな自分の考えに少し笑った。

「お待たせしたようで。」
川縁を縁取るように植えられた柳、青年が立つ木から2本目の柳の陰から剣呑なしわがれ声がした。





   



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