「おお、りん、お前は大野屋様と高橋様、どっちがいいね。」

そろそろ姉太夫の身支度を手伝う頃合、と紅雲の居室に来た少女を迎えたのは、普段歯も見せない仏頂面の楼主の、満面の笑顔だった。

「どっちもしょせん色ボケのすけべえ爺じゃねえか、金子のタカ以外に何があるっていうのサ。」

辛辣な悪罵を投げたのは不機嫌丸出しで鏡台を背にした紅雲で、少女は何があったのかと首をかしげた。
この姉太夫が客をこんなふうに罵倒するのはいまだ見たことがない。
遊女の中には何くれとなく客をこき下ろすことを全くためらわないものも多く、それをしない紅雲の聡明さと粋はひそかに少女の誇りとするものでもあった。

「そろそろお前の水揚げにね、名乗りを上げてくださる方がいるんだよ。1人でも大旦那がつけばいいってところをね、お大尽様が2人もご所望だ、よくやったね、りん。」
「はあ、ありがたいことでござんす。」
とりあえず楼主には生返事を返したものの、自分の水揚げの話でなぜ紅雲がこんなに不機嫌なのかということのほうが少女には不可解で大事なことだった。
「2人だけじゃねえだろ。もう1人いるじゃないのサ。」
「あの旗本かえ。」
楼主の声に少女ははっと目を見開いた。
まさかと否定はしたものの、心当たりは一人しかいなかった。
静かな声で父の死を告げ、また来るとだけ言い残して帰った青年のあの眼差しを、あの日以来朝な夕なに脳裏に浮かべていることを少女は誰にも話していなかった。

「まだ馴染みにすらなってないってのに野暮な侍だよ、なあんにもわかっちゃいない。まあ一応、これこれこういうわけで、りんのためにね、こんだけの金子を投げてくださろうって方がいるんですよって諭してやったら、ま、身の程を知ったんじゃないかね。あんな食いつめ旗本ふぜいに出せるおあしじゃお話にもならないだろう?りん。」
「それは若様、いや神威様、でござりんすか。」
「おお、そうそう、言うにことかいて、水揚げと同時にお前を請け出したいとか言っていた。まともに相手をするのも馬鹿らしいよ。今までうちがお前にいくらかけたと思っているんだろうねえ。ま、どうせできやしないだろうけどね、大野様と高橋様が名乗りをひっこめて、さらにその上で神威様が水揚げのかかりをご用意くださるなら考えましょ、とだけ言っておいたよ。」

「あんの色ボケじじいども、どうせまた見栄のつっぱらかりあいをやりてェってだけだろ。りんの初床をなんだと思ってやがんのサ。」
大野屋とは十組問屋河岸組の重鎮油問屋大野屋の楽隠居、高橋は菱垣廻船問屋の相談役、という三浦屋には最も太い大事な客であった。
紅雲との馴染みはもうかなり長く、2人とも紅雲の格を支える遊び人で知られるが、お互いの商売の鬱憤もあるのだろう、遊びで見栄の張り合いを競っているところがあった。
2人とも新造好きで、近頃は紅雲に他の客が入っているのを見越して通ってくる。
「どうしたんだ紅雲、さっきからお前らしくもない。何が気に入らないんだい。」
「ああ何もかも気に入らないねェ、どっちにしろまだりんはわっちの部屋付きにしといてもらうよ、水揚げの話はまだ早い。わっちがそう言や、あのすけべえどももちったあ頭が冷えるだろ。」
「お前、まさか余計なことを言おうとしてないだろうね。こんないいお話は滅多にないんだよ、りんのためにも早いほうがいいじゃないか。」
「もっとひっぱりゃ、もっといいお客がつくかもしれねェだろ。」
荒れた口調で楼主と言い争う紅雲を見て、少女はわからないなりに姐さんには何か考えがあるのだと思った。
「わっちは、紅雲姐さんのお言いつけどおりにしたいでありんす、姐さんが早いというならりんにはまだまだ足りないところがあるってことでござんしょう。」

楼主はまだもごもごと話を続けたそうだったが、かんしゃくを起こす寸前の紅雲にきつい目で追い払われ、部屋を出て行った。

少女は話していない青年とのことを紅雲には打ち明けるべきかと迷っていた。
自分に心当たりすらない時から水揚げに名乗りを上げるかもしれないと先を読んでいた紅雲の聡明さに頼りたくもあったし、何より尊敬する姉太夫を二度と自分のことで煩わせたくはなかった。
だが、どう話したものか。

「ねえ、りん。」
もじもじと迷う少女に紅雲は優しく声をかけた。
しかし声をかけたものの、自身が迷っているのだろう、見上げる少女の頭を優しく撫でて黙っている。
「姐さん。」
少女は思い切って切り出した。
「やっぱり神威様はわっちに縁あるお方でござんした。」
小首をかしげて先を促す紅雲に、自分の感情を入れぬように努めながら少女は一部始終を話した。

「…若様は。」
話し終わっても、じっと自分の言葉を待っている紅雲に、少女は観念したかのように涙声を漏らす。
「お師匠のためだけに、わっちを探して、」
「違うと思うよ、りん。」
「でも若様はあのときなんにも言わないで、わっちに触ろうともしないで、」
「りんは触れて欲しかったかえ。」

必死に涙をこらえて小刻みに震える少女の頭を、紅雲はもう一度優しく撫でてやった。
「…わかりんせん。もう、いろんなことがいっぱいで、若様にすがりついてるのが精一杯で、」
「あのね、りん。」

少女が顔を上げるのを待って紅雲は少女の、梅のつぼみのような唇にそっと指を当てて語りかけた。
「どうしてわっちがこんなことを知ってるのかは聞かないでおくれよ、神威様にも言っちゃあいけない。」

「あのお人は、お前のために修羅になろうとしているよ。」

息を呑み、問い返そうとする少女の唇に当てられたままの指に、ほんのかすかに力が込められた。
「詳しくは、どうしてもわかんなかった。でも多分、きっとうんとつらいことをなさろうとしているよ。」

「りん、お前にしかできないよ。神威様のほんとの胸のうちをのぞいておいで。それで、ようく、考えてごらんな。」

優しい声に少女はとうとう涙をこぼし、強く頷いた。





   



表紙