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「秘めておけるとは、」

先に沈黙に耐えられなくなり、唇を噛んで目をそらす少女を労るように、青年はかすれ声で呟いた。
「思っていない。」
自分の胸を突いた少女の手を捉え、引き寄せる。
その華奢な体はあっさりと青年の腕の中におさまった。
空想すら己に禁じてきた少女の香りとその感触の、あまりの儚さと甘さに青年はおののく。
もう、逃れられない。
籠の小鳥のように捕らえられているのは自分のほうだ。
腕に力を込めれば全身から泉のようにいとしさが湧き上がり、そのあふれる水に青年は溺れていた。

抗いがたい恋を自覚する青年の腕の中で、少女は言いようの無い安堵に震えていた。
青年が今日また訪れるまで少女の心を占めていたのは、この清廉な物腰の侍に自分は汚れと思われていないだろうかという不安だった。
父のことなどもう覚えていない。
その父の今際の際の懺悔を抱えてやってきたこの青年はどんな思いで自分を見ただろう。
まだ水揚げも済まない身とはいえ、ぬぐい去れぬ汚れに染まっていると思われはしなかったか。
評判の新造としてあでやかな着物を着て、そつなく振る舞う自分に失望しはしなかったか。
かといって、この青年には一番美しい姿しか見て欲しくなかった。
一度目よりも二度目、二度目よりも今日が、より美しい自分でなければならなかった。
この男の胸のうちを占めているのは、師の無念だけではないと思いたかった。

りん、と音にならない吐息で名を呼ばれ、少女は伏せていた目を上げ青年の顔を見た。
ずっと涼やかで静かだったその瞳は、今や甘い欲に潤んだまぎれもない男のもので、少女は甘い菓子をたのしむようにうっとりと自分に向けられた青年の狂おしいまなざしを味わった。

恋焦がれてくれなくば、嫌。
狂う程に欲してくれなくば、嫌。
長い郭暮らしで歪んでしまっていても、未だ恋を知らぬいかにも娘らしいその思いが、少女の偽らざる本心であった。

熱に押されるままに口づけてしまってから、青年は廊下をはさんだ向かいの座敷からの賑やかな声にはっと我に返った。
ここは遊郭なのだ。
これほどいとしいのに、この少女は依然ここに捕われたままなのだ。
そう遠くない先に、きらびやかな衣装に飾られて、男たちに摘み取られるのを待つだけの身なのだ。
自分以外の男たちが、こうして自分のように熱に浮かされてこの少女を抱きしめるのかと思うと、それだけで青年の心は狂おしい嫉妬の炎に焼かれた。
自分の身などどうでもいい、と青年は腹をくくる。
この熱はいつか自分を焼くかもしれないが、ここから少女を救い出すためには必要なものだ。
それまで存分に燃えるがいいと青年は少女を抱いた腕をゆるめながら、自嘲気味に己の暗い熱に語りかけた。

「…若様?」
青年の様子に気付いた少女が不安気に問いかけてくる。
その頬は口づけの余韻にかすかに上気していて、青年はめまいのするようないとしさを必死に押し隠して優しく微笑んだ。
「…血は争えない、ということかもしれんな。」
首を傾げる少女をくるりと腕の中で抱きかえ、背中から幼子を抱くように膝に乗せて抱え込む。

「以前話しただろう?私の父は女に弱かった。」
子供扱いをされたと感じて軽く抵抗しようとする少女を、背後から頬を寄せてなだめながら、青年は腕をのばして持参した砂糖菓子をひとつ手に取った。
「しかし、今なら父上の気持ちもわかるかもしれん。りんの言う事なら何でも聞いてやりたい。」
少女に、子うさぎのような愛らしいその口を開けさせ、菓子を放り込んでやる。
上質の砂糖が舌の上で溶けるその贅沢な甘みに少女の顔が自然とほころんだ。

先程の口づけも今自分を包む青年の匂いも熱もその声も、舌の上の菓子と並んで甘く、少女はうっとりと夢を見るような気持ちだった。
「若様にはご内儀はいらっしゃりんせんのでしょう?」
「妻を娶ろうと思った事もないな。」
青年を見上げて、もうひとつ、と菓子をねだりながら、少女は悪戯っぽく笑って言った。
「それならりんが若様を独り占めしても、どなたもお困りになりんせんね?」
「そうだな。」
ふたつめの菓子を運んできた青年の指をつかまえて、少女は菓子ごと青年の指を舌で撫でた。
「若様はりんの。」
「ああ、そうだな…私はりんのものだ。」
そのなまめかしい感触に青年が思わず息をのんだことに少女は気付かない。

「おいし。」
「気に入ったか。」
青年の指は少女のあごを優しくなぞっている。

「若様が選んでくれんしたの?」
「頼めるあてもないものでな。」
少女の指は青年の逞しい腕を軽くつねって遊んでいた。

「思いがけず女心をご承知だなんて、お人がわるい。」
「りんのことしかわからない。」
ちらと顔を見れば、甘い言葉を返してくる青年は優しい微笑みを浮かべたままで、少女はますます有頂天になった。

「若様、お願いがありんす。」
目を輝かせて自分を振り仰ぐ少女に、青年はたまらず額に軽く口づけながら言った。
「早速おねだりか、言ってみろ。」
これほどいとしいものとは知らなかった。
先程少女に言った言葉は浮かれた自分の熱をさますためのものだったが、あながち方便でもないなと思う。
こんないとしさに突き動かされていたのなら、あれほど軽蔑した父も許せそうな気がした。

「日高屋の紙?」
少女が大事そうに懐から取り出したのは、上質な赤蘇枋の薄紙だった。
「紅雲姐さんがお使いなんはこれ。ほら、お名前のとおり、きれいな紅でござんす。」

少女のお願いとは、姉太夫が手紙に使う紙と同じ店のものが欲しいという他愛ないものだったが、たかが紙でも好きなものを買いにいく事など許されないこの遊郭の厳しさと、そこに捕われた少女の哀れを青年に強く感じさせた。

「この色でいいのか?」
「だめだめ、この蘇枋は姐さんの色でありんす、わっちなんかが使っちゃあいけないお色。」
ぽすっと軽い音を立てて少女は青年の胸にまた寄りかかり、薄紙をかざしてうっとりと眺めた。
同じ日高屋のその色違いをひとつ決めて手紙を書くのにそれだけをつかい、紅雲と言えばあのしゃれた赤蘇枋と言われるように自分もなりたいのだと少女は青年に話して聞かせたが、本心は憧れの姉太夫と同じものを持ちたいという無邪気な憧心だった。

「色は沢山あるのか?私は日高屋が商う小物のことなどわからんぞ。」
「この紅に、浅葱、雀、柿色に桔梗、露草、山吹。琥珀に鶯。」
少女は指を折って色の名を挙げた。

「どれもよい色だそうで…迷ってしまいんすが、わっちは桔梗にしようかと…若様のお召しの袖と同じ色。きれいな色でありんす。」
「りんに桔梗は寂しいぞ、もっと似合いの色があるだろう。」

高貴で涼しげな紫は、確かに美しい色だがこの少女には似合わない。
自分の着物と同じ色を選ぼうとする少女は愛らしくもあったが、ならばいっそうこの寂しげな美しさをこの少女に添えたくはなかった。

「山吹はどうだ、明るくて強い。」
「山吹は山の花の色でありんす。」
山の花など垢抜けない、とやや不満げな少女に青年は笑って答えた。

「りんが使えばこの上ない華やかな色になろうよ。それに山吹は桔梗と並ぶと美しいぞ。」
少女は正面に向き直りちょっと考えているようだったが、青年の指に3つめの菓子を口に入れてもらうとやがて笑顔になって言った。
「若様がそうおっしゃるなら山吹をお願いいたしんす。若様はりんのいやなことなんか、絶対なさらないんでありんしたね。」

次の機会に必ずと約束し少女の見送りを断って、青年は吉原を後にした。





   



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