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「人を斬ったことはおありですかい。」
がっちりと岩のような体躯と顔の男に招き入れられたのは、大川のほとりにへさきを並べる船旅籠のひとつだった。
岡本と屋号があり、火消しや町奴など見るからに荒くれた男達が出入りする岡場所でもあるようだ。
「ない。不足か。」
手短に答えた青年に、男は全身を振るわせる下卑た笑いを浮かべた。
「こちとらもけっして楽なヤマじゃねえ、用心は色々とさしてもらい、」
「では何人、斬ってくればよいか言え。持ち帰るのは首か指か耳か。軽いほうが助かる。」
青年の優美な風情におそらく男はみくびっていたのだろう、自分の言葉を遮ってその口から出た言葉と声の冷酷さに少し驚いたようだった。

「いや何人、ってえ決まりがあるわけじゃ…」
「貴様らの仕事を請け負うついでに、私も少し脅しをかけておきたいところがいくつかある。ちょうどいい。」
男は唖然としていたがすぐ面白そうに笑い出した。

「へっ、お武家様もいろいろおありってえことですか。わかりやした、見届け人を用意しやしょう、お灸を据えたいのはどこのどいつで。」
「大野屋。手代か奉公人か、まずは一人二人でよかろう。」
「大野屋もとんだ災難だ、こんなおっかねえ旦那の恨みを買うたぁな。」
男はまたへっへと下卑た笑いを漏らし、二人の間に置かれたままの銚子を手に取り青年に差し向けた。

「お手並み拝見とまいりやしょう。あとの始末はまかせてくだせぇや。」

油問屋大野屋の奉公人が二人、無残な惨殺死体で発見されたのはその二日後だった。
辻斬りが出た、という報はまたたくまに一帯に広められたが、その夜の事件は目撃者もおらず、怨恨者も見当たらず、下手人はあがらなかった。

「さて、神威の旦那。」
炯炯と光る目で青年を上から下まで眺め回しながら顎に手を当てて無頼は言った。
最初に会った岩のような侠客から、全てはこいつが取り仕切りますと引き合わされたこの無頼の名を青年は知らない。
知る必要もないことはお互い承知していた。
この男は自分につけられた侠客どもの代理人であり、同時に見張りでもあるのだろうと青年は理解している。
見ず知らずに近いものに危険な仕事をさせるなら、そのつながりは出来る限り隠しておくのは当然の用心だった。

「…こう呼ぶのは何かと具合がよくねえな、こっちも旦那ってェ手駒はきっちり隠しておきてえとこだ。これからは先の面倒を減らすためにも違う名前があったほうがいい。」
無頼の言葉で、何か不手際があればこのしたたかな侠客どもに自分はあっさりと切り捨てられるのだという青年の予感は確信に変わる。

「好きにしろ、私は何の何兵衛になる。」
「名無しの権兵衛じゃ色気もくそもねえ。鬼櫓と呼ばしてもらおうか。どうでえ。」
「侍どころか人の名とも思えぬ禍々しさだ、気に入ったぞ。」
整った薄い唇に笑みを浮かべる青年に、男も満足そうに笑ったが、すぐ目つきと声を荒んだ侠客のものに戻して話し始めた。

「…子の刻に大川の西端、名は勝蔵と伝三郎。見届けはなしだ、時間はかけるんじゃねえぞ、早けりゃ早いほどいい。済んだら岡本に指を持ち帰れ。鬼櫓とだけ名乗ればあとは何も言わねえでいい。そんでそのまま朝までそこにいろ。ねぐらに戻るのは明日の昼を過ぎてからだ。いっとくがお膳立てはするが尻は拭いてやらねェぞ、てめえがうった下手はてめえでかぶってもらう。しくじるなよ、仕事はこれだけじゃねエ。」
「貴様らこそ番所に尻尾を捕まれぬよう、せいぜい気を配れ。」
表情を動かさず冷ややかな言葉を返す青年に、無頼は口の端を吊り上げる狂人じみた笑いでこたえた。

「まさかの時にゃあ、鬼櫓ってェ化け物がやったことにすらぁな。俺たちゃみんな、その化け物にかどわかされてんのさ。」

その日を境に、付近を受け持つ同心や岡引たちは今までそれなりに静かだったやくざものたちの調べに急に忙しくなった。
今まで小競り合いの火種をつくっていた各組の鉄砲玉や用心棒が、今日は一人、明日は二人と辻斬りの被害にあって消えていく。
裏で絵を描いているのは、そして全く痕跡を残さずにそれなりの修羅場を踏んだごろつきどもを次々と斬り捨てているのはいったい誰だと同心たちは躍起になって探し回ったが、突如現れた辻斬りの正体は一向にわからなかった。

「鬼櫓。」
「…忘七か。」

無頼はやはり名前がねえのは不便だなと自分をそう呼ぶように青年に告げていた。
以来、まともに言葉を交わす相手はこの男一人だけというのもあって、青年と無頼の間には奇妙な親密さが生まれている。
無頼はずかずかと青年の前に進み、遠慮のかけらもない騒がしさでどすんと腰を下ろした。

青年はもう生まれ育った屋敷を離れて暮らしている。
屋敷を含むほとんどのものを売り払い、使用人たちにすべて暇を出してもう一月あまりがたっていた。
侠客どもが青年の仕事のために用意した隠れ家は意外にも、少し羽振りのいい商人あたりがひっそりと妾を囲うのにふさわしいような小ぶりで瀟洒な家だった。
しかし外からの見た目は良くともその家は非道な仕事に段々と荒んでいく青年が身を隠す牢であり、ひどく凄惨な空気に満ちている。
見張りと連絡をつとめる無頼とごく少数の剣呑な男たちが出入りするだけのその家で、青年はまさに罪人のようにじっとしているのが常だった。

「おめえ、いい具合にやさぐれてきたな。」
うろんな目をあげた青年は少し酔っているようだった。
片膝を立て、柱にだらしなくもたれた姿勢でそれでも剣は抱えたまま青年は酒を飲んでいる。
たったひと月でかつての清廉な所作は面影も無く、その目は鬼の凄みを増していくばかりだった。

「一月前はこんな色男が何を血迷ってとしか、なあ?」
青年がこの無頼の指図を受けて斬ったのは丸腰の下っ端ばかりではなかった。
一度など、そうと知らされず女を斬った。
あきらかに自分を逆に返り討ちにしようという企みにはまりかけたこともあった。

腹をくくったつもりでも開き直ったつもりでも、夜毎嗅ぎ続ける血の臭いは強力な呪詛となって青年の精神を確実に蝕んでいた。

「だが今はいいツラだぜ、いっぱしに見えらぁ。これなら賭場にいたっておめえの正体には誰も気付かねえどころか、どこの客分かと頭を下げるにちげえねえよ。」
「何が言いたい。貴様の話はいつも長い。」
「じゃ、手短に言うぜ。一緒に来い。」

無頼に連れられて来たのは賭場だった。
建物は粗末だがその内部は本物のいかつい博徒達が声を張り上げる、ぴんと張り詰めた鉄火場の空気と人いきれで冬の初めという季節に汗ばむような熱気が充満していた。
無頼の言うとおり青年を見咎めるものはなく、時折目礼を寄越すものさえあった。

「そのうち来るだろうとはふんでたが、来たぜ。本丸がよ。」
見ろ、と無頼は顎で部屋の隅を指した。
青年より少し背は低いが、獰猛な獣のように敏捷そうな男が立っている。
着崩れた着流し姿で何かに飢えたような顔つきをしながら、落ち着かなさげにみっともなく身体を揺すって盆を覗き込んでいた。

「おめえと同じだ。山ノ井組が人斬り屋を呼んだ。」
「侍か。」
「侍くずれよりタチがわるい。仁義もクソもなく暴れ回ってしまいにゃ遠州からはじき出されたってえ本物の狂犬だ。」
無法者たちとはいえ、彼らには彼らなりの法がある。
それすらわきまえず、ただ血を見たいがだけの「ひとごろし」は裏の社会においても歓迎されない存在だった。

「そんなのを呼びつけるってこたぁ、あいつらはおめえがおっかなくてしょうがねえってことだがな。いい仕事をしてくれたもんだぜ。」

「こっちとしちゃ、もうこのヤマは仕上げにかかってんだ。じたばた意地を張る山ノ井の最後のあがきがあいつなんだよ。」
無頼は満足げににんまりと笑う。

「山ノ井はあいつが負けたら手を引こうと言った。つまり、」

「あいつを殺せば、おめえも晴れて年季明けだぜ。あいつの耳と引き換えに金を渡してやらぁ。」
自分にとってまさに地獄のようなこの日々が終わる、と告げられても青年は明るい気持ちにはなれなかった。
人ごみにまぎれて見え隠れする「狂犬」の野卑な仕草は、青年にしぶとい野生の獣を連想させた。

「私が負けたら。」
青年の内心の恐れはひとり言のような言わずもがなの問いとなる。

「次を探すさ。」
無頼はもう賭博の行方に興味を移しており、軽い調子でそう答えた。





   



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