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「りん!りん!ちょっと!」

呼ばれた少女が何事かと階下に降りていこうとすると三浦屋の軒先は朝から大騒ぎだった。
支度も整わない遊女たち、物見高い野次馬たち、それを追い払おうと飛び回る牛太郎や番頭たち、何が何だかわからずに風呂番や料理番のものたちまでが右往左往している。
その騒ぎの真中には、芝居の道具かというほどに現実味のない銭函や千両箱が山と積まれていた。
その一つに無造作に腰掛けて、弱りきった顔の楼主に不敵な笑みを向けているのは、あの青年だった。

「ここまで運んでくるのに難儀をしたほどだ。不足はあるまい。」

「いえしかし、あのですね、」

青年が大量の金と一緒に持ち込んできたのは、少女の身請けの話だった。
以前にまったくお話にならないと適当にあしらった楼主はしどろもどろになりながら、何とか青年の意を翻そうと四苦八苦しているがどうにも旗色は悪い。
非常識な話を持ち込んでいるのは青年のほうなのだが、当人は晴れやかな、何かを吹っ切ったかのように堂々とした笑顔で、むしろ楼主の慌てぶりを楽しんでさえいるかのようだった。

「大野屋は番所の沙汰あって謹慎中、高橋もまだ金子を持ち出してきてはおらんだろう?」
わけもわからずとりあえずお客だからと下働きの料理番が差し出した茶を一口飲んで、青年は驚きに目を見開いて階段の途中に立ちすくむ少女に目をとめた。
にっと笑ってみせるその顔は、少女には少しやつれて見えた。

「迎えに来たぞ!」
ざわめきの中でも良く通る、張りのある声でそう呼ばれ、少女はさらに驚きに目を見開いた。

「しかし、ちょっと神威様、お待ちくださいよ。」
「今更ごねるな、これを数える時間が惜しくはないのか?」
これ、のところで青年は手近の銭函のふたを軽くずらしてみせた。

「私の気が変わらないうちに奥へ持っていけ。それともこれだけの金子を今日のところは、とでもいってまるまる持ち帰らせる気でもあるまい?」
思わず銭函の中を覗き込んだ楼主の背中をぽんと軽く叩いて立ち上がり、青年は軽い足取りで階段に向かった。

迎えに来たぞ、ともう一度繰り返し、青年は立ちすくむ少女の手を取った。
少女の背後にはいつのまにか紅雲も騒ぎにつられて顔を出しており、同じくいきなりの身請け話に驚いて目を丸くしていた。

「紅雲殿。」
青年は紅雲を見とめると、すっと目を伏せ礼を払った。

「貴女の可愛い妹を連れ去る無礼を許されよ。いつかの誓いは忘れておらん。」
その様子はまるで高貴な姫君に対する礼そのもので、ざわざわと騒がしい遊郭の階段にはまったく不釣合いであったが、しばらくあっけにとられていた紅雲はふいと目元を緩め、慈愛をとろりととろかしたような美しい微笑で青年の礼に応えた。
「わっちの見立てより、ずっと思い切ったこのなさりよう。思いのほか、粋なお方でありんしたのね。」
「貴女に見直していただけたなら光栄だな。」

「りんはこのまま連れて帰らせてもらうぞ!」
顔を上げた青年は少女を軽々と抱え上げそのまま大股に階段を降り、板の間を横切り、右往左往する人々のたまる土間を抜けた。
楼主は慌てて追いすがろうとしたが、無関係の人々もひしめくそこへ大金を放置するわけにもいかず、結局呆然と青年を見送った。

「若様、若様?いったい?どうなすったんです、あのお金、」
いつもなら見上げる青年の顔を、抱えられる少女は今は見下ろしながらそれでも必死に問いかけた。
若様らしくない、それにこのやつれよう、と少女は気が気ではなかった。
夢のような事態にも、少女は紅雲の言った言葉を忘れてはいなかった。

―修羅になろうとしているよ。

青年に似合わぬ、粗野なほど派手な振る舞いのわけを問いたださなければ、確かめなければと少女の不満は増すばかりだった。

「私に請出されるのは嫌か?」
しかし想う男の腕が、今しっかりと自分を抱いてあの大門を抜けようとしていることを、毎夜思い描いたその優しい笑顔と声で確かめてしまうと、少女の目からはもう喜びの涙しか出てこない。
青年の顔にしがみつき、泣きながらかぶりをふる少女は、まるで親猫に甘えて顔をこすり付ける子猫のようだった。

「もっとも、嫌だと言っても聞き入れんぞ。」
少女の背を優しくぽんぽんと叩きながら青年は笑いを含んだ声で少女に語りかけた。
あっけにとられる色街の住人たちに見送られながら、二人は吉原の大門をくぐる。
抜け出ることも壊すことも、絶対にできないと思っていたはずのその門と街は、背の高い青年に抱きかかえられたままの少女にはかつてないほど小さな、無力なものに見えた。
ついほんのさっきまで、自分はあそこに閉じ込められていたのだ。

「これで、りんは私のものだ。」
見返り柳が冷たい風にゆらと揺れて2人を見送る。
漠とした不安を消すことも、こみ上げる喜びを抑えることもできないまま、ただ自分にしがみついて泣き続ける少女を抱いて青年は歩き続ける。
その顔は迷いも恐れも全て吹っ切った者の、ただただ晴れやかな微笑だけを浮かべているのだった。





   



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