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「ここ…が若様の…?」

庭と座敷は備えているものの、武家屋敷とは名前ばかりのごくごく小さな家に少女はきょろきょろとあたりを見回した。

「何もなくて驚いたか。まあ、明日の朝までの仮の住まいだ。」
「え、明日?」
驚く少女の頭を撫でて、青年は少女の目を覗き込んだ。

「りんは江戸を離れるのは嫌か?」
突然の問いに少女はただ目を見開くばかりで何も答えられない。
青年は予想していたようで、ふっと笑って立ち上がり、部屋の隅に置かれた行李の中をかき回し始める。
その中身は着物や笠、懐炉や薬入れに至るまで、高価ではないもののよく吟味された女性用の旅支度だった。

「明日になったら旅に出るぞ。箱根までは馬だ。馬に乗ったことはあるか?」
話しながらも青年は手を止めない。
少女は戸惑いながらも、馬に乗ったことはないと青年の背中に告げた。

「私と一緒に乗れば大丈夫だろうがな。怖かったら背負ってやるぞ。」
向き直った青年は行李から取り出した何枚かの着物を選別するように次々と少女の体にあて、どれもその可憐さを損なわないものであることを確かめて満足げに微笑んだ。

「そこから先は徒歩になろうがな。箱根を越えればそう急がなくてもよかろう。」
こわれものに触れるような繊細な手つきで、青年は少女の頬をそっと撫でた。
優しい慈愛に満ちた微笑は少女には懐かしいほどに嬉しく、もうずっとこの手とともにいられるのだという喜びを噛みしめる。
しかし青年はいとしげに少女の頬を撫でながら不穏な話を続けた。
「行き先は博多だ。行った事は…なかろうな。」
「は、博多?」

旅に必要なものは全て手配してあること、自分を住まわせる予定の商家のことなどを淡々と話して聞かせる青年に、少女の胸のうちには焦燥に近い不安がいっぱいに広がり始めた。

「あまり贅沢はできんだろうがな、娘分として間違いのない扱いをしてくれることは確かな家だぞ。」

そう言って、青年は何でもないことのように、自分は江戸に戻るから、と付け加えた。
少女の目が驚きに見開かれる。
江戸から博多までをお役目でもないのに往復するなど正気の沙汰ではない。

やはり確かめなくては。おかしい。何かがおかしい。
この人は何を隠しているの。

「どうして、どうして若様は、一緒に、ずっとりんと一緒に、」
しかしそれを知るのも少女にはまた恐ろしく、その言葉はもごもごと意味のない、歯切れの悪いものにしかならなかった。

「私はまだ江戸に用があってな。」
それを済ませたら、と目をそらして軽く答える青年の言葉を少女は到底信じる気にはなれなかった。
かと言って、どんなに問い詰めても青年が心のうちを明かしてくれるとも思えない自分が、少女には歯がゆかった。
それに思わず少女が唇を噛むと、青年の指がそっと動いてその歯を押し上げる。
たとえ少女自身といえど、それを傷つけることは許さない、と、まつげをくすぐり、唇の弾力を確かめる青年の指はあくまで優しく、優しすぎてまるで自分を恐れているかのように少女には思えた。

やっと二人になれたのに。
ずっと一緒にいられると思ったのに。

しばらくの沈黙の後、とす、と軽い音がした。
少女が青年の胸に顔をうずめた音だった。

「若様は、りんの。」
困ったような顔で青年は少女の髪を撫でていた。

自分とともにありたいと願う少女に、酷なことを言っている。
泣かせてしまうかもしれない。
けれど、なんとしても守らなければいけない。
万に一つもこの少女に危険が及んではならない。
自分のまわりになおくすぶる危険から、少女を引き離すための小賢しい言い訳などできない性分だった。

「若様は、」
少女の声は涙にかすれたか細いものだったが、決意に満ちて青年の耳に届いた。

「りんは若様の、っておっしゃいました。」
声とともに涙でにじんだ少女の瞳が青年を見上げた。
青年の顔が苦しげにゆがむ。
抑えていた気持ちはついにあふれだし、青年は少女を抱きすくめた。
少女の体温、息遣い、その香りが自らを満たしていくのがわかる。
青年はずっとそれに飢えていた。

「加減は、してやりたいが…」
いまだに迷いは消えていない。
けれど、もうとどめておくことはできなかった。

「できそうにない。」

いとしさのあまり苦しむような顔をして青年は呟き、少女を抱きすくめた腕を少し解いてその唇に深く口付ける。

存分に口付けを味わった青年の舌はもどかしげに、少女の頬から顎へ、耳から首へと這っていった。
そのたびに少女は体の力が抜けていくようで、青年の広いその胸にすがりつくしかない。
青年の息遣いとその熱い舌は、狂おしく貪欲に少女の全てを飲み込もうとするかのようだった。
くたりと力の抜けた少女の体を支えながら、青年の手は帯を解く。
焦がれる思いに急いていても、その手つきは少女への気遣いを忘れてはいない。
衣擦れの音が耳に届いて少女は青年を見上げた。

郭育ちなのだから、この先起こることは何度も聞いて知っている、はずだった。
けれどこの心細さと、それに相反するこの甘い痺れ。
こんなことは、誰も教えてくれなかった。
青年の指がゆるんだ襟からそっとなかに入ってくると少女の体は小さく震えた。
鎖骨から肩へ、着物をくぐり抜けながら青年の指が届き、その小さな肩の丸みがあらわれる。
指でたしかめたところをまだ足りないとでも言うように青年の唇がなぞっていき、少女はこらえきれず声を漏らした。

翌朝、少女が目を覚ますと、青年はすでに着物を身に付け太刀をさした粋な姿でまた昨夜の行李に向かっており、素裸で夜着にくるまる自分がやけに恥ずかしく思えた。
あたりを見回すと枕元には襦袢が置かれており、急いでそれを身にまとうとその気配に気づいた青年が、着物と帯を手に少女に向き直った。
恥ずかしさに頬を染める少女に、青年もまたかすかに恥らいながら着物を着せ付ける。

「寒いが、晴れたぞ。」
青年の言葉に少女は庭を見やった。
ついたての向こうの障子は開け放たれて、冬の朝の凛とした空気を伝えていた。





   



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