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「鬼櫓ァ!」

「りん、さがれっ!」
朝の空気を震わせ、突如響き渡る胴間声にもう呼ばれるはずのないその名を呼ばれた瞬間、青年は少女を突き飛ばすように後ろにおしやり、片膝立ちのまま機敏に体を反転させた。
しゅうっという衣擦れの音に、青年が鯉口を切る小さな金属音が続く。

「あの鬼櫓の正体が、こんなやさ男のさむらいだったとはなァ、盲点だったぜ。」
声は開け放たれた障子のむこう、庭先からだった。

「道場仕込みのやっとうにしちゃ、えらく鬼気迫る太刀筋だったもんでなァ?おかげでさんざ無駄足を踏んじまった。」
青年の肩越しに少女の目に映ったのは右耳から顔の半分あまりを薄汚れた布で覆った、悪鬼のような男だった。
目は血走り、口をあけて獣のような笑いを浮かべている。

青年は唇を噛んだ。
もしやとおそれていたが、やはりあの夜仕止め損なっていたのだ。
体を蹴り転がし、頭から右耳を削ぎ取り、それでもぴくりとも動かなかったからと絶命を確かめなかったのは恐怖にかられた自分の落ち度だった。
男は両手に握った小太刀の鞘を無造作に払いながら、威嚇そのもののような荒い足取りで縁を上がり、乱暴についたてを蹴倒した。
青年は素早く抜刀し、腰だめに太刀を構える。
男は狂気ばかりをうつす血走った目で、とっさの事態とその恐ろしさに青年の背後で身動きもできない少女をとらえ、口元を引きつらせてにやりと笑った。

「…なるほど女のためかい、泣かすねェ。」
片膝を立ててしゃがんだ低い姿勢のまま、青年が床を這うように飛んだ。

今度こそ、後はない。自分の命と引き換えにしてでもこの狂犬は仕止めねばならない。
自分の目的を知られた。りんを、見られた。
ここでこの男を生かしておいては、自分を追う理由を持つ者すべてに、少女も追われることになる。
そして、やっと引き寄せた宝石のようなこの少女を、この獣じみたおぞましい視線の先に置く事が何よりも青年には許しがたかった。
自分が倒れれば、この狂犬から少女を守るものは何もない。
青年には考えるだに恐ろしいことだった。

明らかに一太刀で終わらせようとする青年の低い剣戟を、男は腰を落とし小太刀をそろえて床に突き立て力づくでしのいだ。
無銘の小太刀とはいえ二本の刀の壁は予想以上に強靭なことを青年はすぐに悟り、即座に立ち上がり後ろへ飛ぶ。
上背のある青年に有利な上段への布石だったが男は読んでいたようだった。

咆哮をあげながら小太刀を力任せに引き抜くと、左を逆手に持ち替え速い突きを繰り返し、男は無造作に間合いを詰めてくる。
青年は男の小太刀を払うのに忙しく上段の構えと間合いをつくれない。
しかし背後に少女を庇う青年は、その場から横にも後ろにも動こうとはしなかった。

獣のように吠えながら二刀を振るう男とは対称的に、静かな殺気を全身にまとって自分の前に立ちはだかる青年の背中を見ながら少女はようやく悟った。

この人は、あたしのために、死ぬ気なんだ。
だから、あんな無茶をして。
あたしを博多に遠ざけて。
あのお金もこうやって、鬼となってつくったに違いない。

あたしにはいつも笑って。
とことん甘やかして。
あたしに、甘い、やさしい夢を見せたまま死んでしまうつもりなんだ。

――そんなの、許さない。

この人はあたしのもの。
あたしはこの人のもの。
そう言ったのに。
ひとりで、勝手に死ぬつもりでいるなんて、許さない。

少女は震える膝を叱咤して部屋を見回した。
男が払った小太刀の鞘を見つけ、めがけて飛んだ。

男の目が一瞬、少女を追う。
逆手に握られた小太刀が少女の行き先をふさごうと伸びる。
その刃を力強く薙ぎ払い、青年は右の小太刀を脇腹に埋めながら男の肩口へ上段の一閃を振り下ろした。
少女の悲鳴が響く。
男の袈裟懸けの致命傷から噴出す血と青年の脇腹から流れるそれとが、少女の前で交じり合った。
男の小太刀は刃はひねられておらず、青年の傷を広げてはいないもののしっかりとその脇腹を貫いている。
自身の傷の痛みよりも、目の前の敵を仕止めたという安堵で青年は力なく膝をついた。
涙で顔をぐしゃぐしゃにした少女が、血の海を越えて青年に這い寄った。

だめ、許さない、置いていかないで。
少女はそう叫んだつもりだったが涙に邪魔されて、その口からは嗚咽が漏れるばかりだった。

血で汚れるぞ。
青年はそう呼びかけたつもりだったが、痛みと安堵でその目にうつる少女の姿は僅かに霞んでいた。
ぼんやりとし始める青年の思考に、ふいとこのまま倒れてしまおうかという捨て鉢な気持ちが浮かぶ。

守ろうだなどとなぜ考えたのだろう。
自分といてはりんに危険が及ぶばかりではないか。

「お前のために死ぬなら、」

今も涙に顔をゆがめて、白い手足を血に汚して。

「本望だよ、」

籠の小鳥を救い出したは良いものの、美しく鳴かせてなどやれないではないか。

「りん。」

切れ切れに言葉を紡ぐ今にも倒れこみそうな青年を、小さな体で必死に支えて少女は歯を食いしばり脇腹の小太刀に手をかけた。
その手に迷いはない。
血糊で滑る刀をしっかりと握り締め、少女は渾身の力をこめて小太刀を抜き取り、その衝撃は青年の体を大きく震わせた。

傷口から流れ出す血を少しでも止めようというのか思わず手を押し当てながら、少女はきっと涙まみれの顔を上げ、迷いのない目で青年を見据えた。

「わ、若様は、」

しゃくりあげながらも、その名のとおり凛とした、強い声だった。





   



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